夢灯りに魅せられて 、癒しともてなしの光を放ち続ける
夢灯りみやこ漁火協議会の歩みが、「みやこわが町」5月号に紹介されました。
会長の佐藤昇が代表して取材を受けました。
その全文をご紹介させていただきます。
夢灯りに魅せられて
癒しともてなしの光を放ち続ける
夢灯り宮古漁火協議会会長 佐藤 昇
夢灯りとの出会いは盛岡のイベントで見た、
その光のほのめきに一瞬にして魅せられたことだった。
夢灯りは北海道旭川市が発祥とされる。それが盛岡を経て宮古へ。
今や宮古の風物詩として数々のシーンを鮮やかに彩る光景は、
長年に渡る佐藤さんの情熱にほかならない。
盛岡で出会ったこの夢灯りをぜひ宮古でもと思い立ったのは平成5年。
第8回国民文化祭いわてが県内で開催される年だった。
宮古はパッチワークキルトの会場だった。
佐藤さんはこの文化祭を盛り上げたいと、
当時、市のPTA連合会の会長に諮り、夢灯りを行うことになった。
そこからキャンドルスタンドの親子製作教室を開きながら普及活動に乗り出した。
スタンド製作は親子の触れ合い、子どもの創造力を狙いに、
そしてこの灯りで宮古のまちを元気にしたいということだった。
大会前夜の10月9日夜、
閉伊川グランドに並べられた1000個のキャンドルに灯りが灯ると、
誰もがその光景に感動の声をあげた。
「あの日のことは今でも忘れない」と佐藤さん。
以来、野外音楽祭、マラソン大会、神社仏閣の例大祭、
客船の歓迎など各種イベントでこの光の輪を広げてきた。
客船の歓迎には多くの思い出を持つ。
「飛鳥の出港での夢灯りは評判だった。
世界の港でもこうした出港歓迎はないということを聞かされた。
また、この夢灯りを見たさに再乗船し宮古に来た観光客もいる。とても嬉しい」
2011年3月11日に発生した東日本大震災。佐藤さんはその現実に心が痛んだ。
いてもたってもいられず、少しでも被災者の心のケアになればと
避難所での夢灯りを決断した。
しかしそれは杞憂に終わった。
人々はこの灯りに安らぎを求めて群がった。
全てを失った年配の方が静かにキャンドルの火を見つめながら、
「人生は一寸先がわからないものだ」と一言つぶやいた。
厳しい現実の中であったが、
それは鎮魂の祈りとなって市内至るところに広がっていった。
人々が打ちひしがれている中にあって、
その灯りは希望の光となって人々を励まし続けた。
「いろんな人との出会いがあって、私の生き甲斐にもなった。
少しは宮古のために役立ったかとも思う。
これからも出来るまでこの火を灯し続けていきたい」。
夢灯りを通して地域を癒し続けてきた佐藤さんの情熱は尽きることはない。